つなぐ通信 Vol.18
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なく、織物関連の工場も多く残ったのです。 その後八王子の織物産業は、戦後の復興や朝鮮戦争の恩恵も受けて立ち直り、ガチャンと織れば万と儲かる「ガチャ万」景気を迎えました。さらに幾度の困難を乗り越えながらも、バブル期を経て中国など海外生産の安価な輸入織物に押され、倒産や廃業する工場も続出。八王子の織物産業は基幹産業の地位を失い、生産高は下降を辿り続けることになりました。 奥田染工場が葛飾区から八王子の中野上町に移転したのは昭和17年(1942)。奥田博伸さんの父・正美さんは祖父の急死で、大学生だった昭和38年(1963)に代表になり、奥田さんもまた早すぎる父の死で、平成22年(2010)に32歳で代表となりました。奥田さんが物心着いた時には、すでに繊維は斜陽産業。バブル期でも父・正美さんは儲けに走らず人の面倒をよく見、人とのつながりを大切にする方でした。HachiojiJapanTokyoつくるのいえ織物・染色クリエーター木工&リノベーション街産地八王寺大空襲前年の航空写真。浅川を挟み、広い範囲でたくさんのノコギリ屋根が見える。国土地理院デジタルアーカイブより浅川を挟み、東西に準工業地域が広がる。右に八王寺市街があり、左が中野上町など織物関連工場の多い地域。戦火の被害が少なかったため、ノコギリ屋根の工場が今も残る。利益よりも人を優先にしてきた奥田染工場の「人という財産」1944Hachioji Town06TSU NA GU TSUSHIN

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