つなぐ通信 Vol.18
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写真=大社 優子 文=成田 典子江戸時代、八王子は織物や生糸の集積地として飛躍的に発展準工業地域の中野上町は大空襲にも耐えた織物地帯event & gallery再生 循環Hachioji12017年12月のプレオープンイベントのビジュアル。イラストレーターのHarucaさんが、この家にゆかりのある一人一人を思いながら描いた。22日間たくさんの人で賑わった。3手前にあるのは、奥田染工場が岡山の石井織物工場の布に梅墨で染めたタペストリー。4岡山産地のトークイベント。5八王子の仲間と岡山産地の石井織物工場を見学。 125写真提供:奥田博伸 プレオープンでは、岡山の織物産地と、東京のデザイナーやつくり手たちとの交流会を開催。染め体験や倉敷帆布のトートバッグ作りなどのワークショップ、地元の工場見学、岡山産地のトークショー、おいしいもの交流会、岡山と東京のつくり手のショップなど、人・モノ・コトが交流する楽しく濃い内容で、2日間で400人以上の方達が参加しました。 なぜ八王子の中野上町で、日本のものづくりの〝ハブ〞を作ろうとするのか・・・それには、「桑の都」として、古くから養蚕や織物が盛んだった八王子の歴史が後押ししました。まずは、八王子の織物の歴史を知るところから始まります。 八王子は山地や丘陵に囲まれ、浅川を中心に、扇状の八王子盆地が広がっています。山間地や砂礫が多い土地のため水田耕作には適さず、古くから農家は副業として、桑畑を設けて養蚕や機織りに勤しんできました。江戸時代に入ると八王子に陣屋を置いた関東代官頭である、大久保長安により甲州街道が八王子宿として再建されて「市」が開かれ、周辺の村々から生糸や織物が集まるようになりました。 「市」は、周辺の青梅や津久井、郡内地方(山梨県)、秩父地方(埼玉県)の織物も集まる織物集積地となり、八王子は最大の消費地江戸を背景に「織物の町」として飛躍的に発展。江戸後期には、「八王子十五宿」と呼ばれる街道中最大の宿場町に拡大しました。 さらに幕末の横浜開港後には、生糸が日本の花形輸出商品になり、信州、上州、甲州から大量の生糸が八王子に集積され、横浜港へと運ばれました。この道はのちに「絹の道」と呼ばれることになります。 大正時代に入り〝電気〞が導入されたことにより、織物の産業構造は手織りから、生産性の高い動力の力織機へと大転換します。生産は山沿いの村の家内工業から、電力を利用した市街地の工場へと移り変わりました。特に浅川沿いの中野上町近辺は、人家が少ないため騒音のうるさい力織機を持つ機屋が進出。また、上質な湧き水が出るため、片倉製糸など水を必要とする撚糸工場や染色工場も集まる織物地帯となり、現在も軽工業の工場が進出しやすい「準工業地域」となっています。 八王子は単なる集荷地ではなく、織物生産の中心地として名実ともに「織物の町」になりました。昭和10年、八王子の織物業が占める割合は、工場数で八王子産業全体の97%、従業員及び生産額で95%を占めていたといいます。 昭和16年、太平洋戦争に突入し、繊維工業は軍事産業への転換や、設備の屑化供出が求められました。そして昭和20年8月、八王子は市街地の90%が焦土となる大空襲を受け、工場数は昭和16年時のわずか20%ほどに激減。しかし中野上町界隈は戦火の被害も少ようさんあさかわさ れきはたいそいちき いとおうめつ く いぐんないりきしょっ きはた やくず かじん や05TSU NA GU TSUSHIN

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