つなぐ通信 Vol.18
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13TSU NA GU TSUSHIN 機屋からテキスタイルメーカーへ日本の繊維産業のために尽力廃業しても終わりではない業界のためにも素材教育は大事1工場はそのまま残されて活用されている。2文化・ファッションテキスタイル研究所では研究員が試作品や企業から業務委託された生地なども織っている。32階では経糸整経が行われている。45世界に45台しかないアレンジワインダー。色の異なる糸をつなぐ機械で、9色の糸の長さを順番に変えながら柄を作ることができる。この特性を生かして絣のような柄やぼかしの織りを開発したのが英紀さんだ。6宮本英治さん。「革新の連続の結果が伝統であり、革新継続の心は伝統よりも重い」という、ものをつくる者にはグサリと突き刺さる言葉を残している。 すぐれたものづくりをしても、服づくりのコストダウンが生地価格から始まるため、多くの工場が生地値の問題で悩んでいました。そういう仕組みも変えていきたかったのです。 80年代に入るとデザイナー&キャラクターブランドが活躍した「DCブランドブーム」が起こり、個性的なクリエーションがどんどん受け入れられる時代となりました。「みやしん」も、「イッセイ ミヤケ」をはじめ、多くの国内外のデザイナーと取り組むようになり、織物業界でひとつの目標とされるテキスタイルメーカーとなりました。 薄い生地の中にたくさんのタテ糸が透けて見える「エアリーウィーブストール」、そのままスカートやワンピースになる「立体成型織」、織りだけでヒダが出る「プリーツ織」、どこを切ってもほつれない「ジョインチェック」など、魔法のようなテキスタイルが次々に生み出され、数々の賞も受賞しました。 しかし90年代になると、バブル崩壊と共に低価格志向へとマーケットが一変。日本のアパレルメーカーはコストを抑えるために海外生産へと大きくシフトしていきました。1993年頃から業界は右肩下がりを続け、工場の倒産や廃業が相次ぎました。そういう中でも宮本さんは踏ん張って創造的なテキスタイルをつくり続けたのです。 90年代中頃には「21世紀の日本の繊維業界のため」、今は力はないが才能がある若手デザイナーを結集したグループを結成。オリジナル生地の生産や展示会の開催をバックアップしました。その中には「ミナ ペルホネン」の皆川 明さん、「シームインターナショナル」の小林シゲキさんなどがいました。 90年代後半には、全国で頑張っている個性ある機屋をアパレルにもっと知ってもらおうと仲間に呼びかけ、機屋の合同展「テキスタイルネットワーク展」を開催。日本の産地の優秀な職人とテキスタイルを無くしてはいけないと、日本の産地の生き残りに奔走しました。 2012年9月、ファッション業界に激震が走りました。「みやしん廃業」の記事が新聞に載ったのです。決断のきっかけになったのは、「宮本さんの生地は高くてもう使えない」という、長い付き合いのあった有名ブランドの若手担当者の一言といいます。「メイドインジャパン衰退の象徴だ」「日本のものづくりの一時代が終わった」など、廃業を惜しむたくさん

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