つなぐ通信 vol.05 2014春号
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伊東巳代治の情報ネットワーク手腕権力を持つことができた知られざる天皇との関係う伝記まで書いてしまったほどである。(ちなみに本来であればこの本は「伊東巳代治伝」とでもしたかったのであるが、商業出版社の悲しい性で面白おかしいタイトルをつけられてしまい、おかげで重版に至らなかった経緯がある)。 私が伊東巳代治に惹かれたのには幾つかの理由がある。まず彼は日清戦争当時、東アジアで唯一の情報ネットワークであった英国の「ロイター電」を買収し、我が国に有利な報道を流させた。国内の政争に明け暮れる現代の「内閣官房長官」殿が果たしてそこまでの手腕があるのかというと甚だ疑問と言わざるを得ない。 それだけではない。日清戦争の後、我が国は下関講和条約を当時の「清」との間で結ぶが、列強の一部が反対した。そうした中で決死の覚悟で清に渡り、その批准書を交換したのが全権代表を務めた伊東巳代治だったのである。 伊東巳代治は子供の頃から聡明であり、英語能力にも長けていた。伊藤博文の下で頭角をあらわし、やがては枢密院や臨時外交調査会で剛腕を振るうようになる。その晩年は「怪物」と呼ぶのにふさわしい人物であった。 ところが、である。伊東巳代治の邸宅は第二次世界大戦中に空襲を受け、焼失してしまった。そのため巳代治ゆかりの文書の多くがもはや存在しておらず、彼がどういった想いをもって行動してきたのかは余り明らかではないのである。 特に伊藤博文と袂を分かってから、伊東巳代治は更に権力の中枢へと上り詰めていくわけだが、我が国が国際連盟に加盟しようとすればこれに反対し、逆に脱退しようとするとこれまた猛烈に反対するといった具合で、1934年に逝去するまでは実に「厄介な爺」でもあったというわけなのである。 「なぜここまで傍若無人に巳代治は振舞うことが出来たのか」そう想い続けてきた私に対して、答えを示す本がここに来て突然上梓された。落合莞爾の著作『奇兵隊天皇と長州卒族の明治維新』(成甲書房)である。その中にこんな一節があるのを見つけたのだ。 「大室スヘの姉は長崎に嫁ぎ、谷口姓のナカで伊東巳代治を産んだので、伊東と大室寅之祐は母方の『いとこ』の関係にあった」またこんな一節があることにも目を奪われた。「終戦直後のこと、台湾に幽閉されている張学良を救出して米国に亡命さすべく、周恩来の密命を帯びた密使が来日」した際のことである。 「密使は周恩来から、張学良の軍師だった元奉特務機関付陸軍大佐の町野竹馬という伊東巳代治の子息を訪ねるように指示され、その際のコメントに、『伊東巳代治は明治天皇の母方の従弟』と教えられた」 教科書的な「日本史」しか学んでこられなかった読者は一体何を言い東京大学法学部在学中に外交官試験に合格、外務省に外務公務員Ⅰ種職員として入省。12年間奉職し、アジア大洋州局北東アジア課課長補佐(北朝鮮班長)を最後に自主退職。現在、独立系シンクタンク代表。「すべての日本人に“情報リテラシー”を!」という想いの下、情報リテラシー教育を多方面に展開。自ら調査・分析レポートを執筆すると共に、国内大手企業等に対するグローバル人財研修事業を全国で展開する。また学生を対象に次世代人材の育成を目的とする「グローバル人財プレップ・スクール」を無償で開講。最新刊は『ジャパン・ラッシュ~「デフレ縮小化」で日本が世界の中心となる』(東洋経済新報社)。OG GIKEN PRESENTSTakeoHarada株式会社原田武夫国際戦略情報研究所代表取締役(CEO)原田武夫 出すのかと思われているのではないだろうか。簡単に言えばこの議論は「現在の山口県田布施町に暮らしていた大室寅吉が寅之祐と称して長州藩の奇兵隊士となり、皇太子睦仁親王と交替して明治天皇となられた」ことを前提としている。そしてその「大室天皇」の血縁だったからこそ、伊東巳代治は抜きんでた出世をし、「怪物」となったとすれば大いに合点がいく。 表だって歴史学者たちが今後とも絶対に語るはずのない「歴史」であるが故に目を見開いておく必要がある。「書かれていない」ことにこそ真実がある。明治、大正、そして昭和と駆け抜けた「怪物」伊東巳代治は今、私たちにそう語り掛けているのかもしれない。株式会社原田武夫国際戦略情報研究所 http://www.haradatakeo.com35TSU NA GU TSUSHIN

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