つなぐ通信 vol.04 2013冬号
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35TSU NA GU TSUSHIN 生活を整えることこそ陰陽の極意「何事も中庸」が家康を天下一に導いた ここで恐らく多くの読者の皆様は不思議に思われたのではないかと思う。「前者はともかくとして後者は単に生活を整えるだけの話。なぜそれが権力を握ることにつながるのか」。全くもってそのとおりである。だが、是非これまでご自身が歩まれてきた人生を振り返っていただきたいのである。 たとえば読者がサラリーマンであったとしよう。日々残業に次ぐ残業で、深夜に帰宅。睡眠時間もそこそこで出勤する日々のおかげで出世はしたが「健康」という最も大事なものを失ってはこなかったか。いやもっといえば、同僚たちとの深酒でついつい翌日まで響いてしまうなどという日々の連続であったはずなのである。 仮にそうした生活とは早々に見切りをつけ、夜は遅くとも午後9時30分には床に入り、朝は午前4時30分には起きるという生活に切り替えていたならば今頃どうなっていたであろうか。アルコール漬けになっていない体は元気そのもので起床を促し、出勤前に十分な時間があるので読書も仕事も出来る。誰よりも早く出勤することでミスもなくなり、夜も早々に帰っているはずなので夫婦家庭も円満・・・だったはずなのだ。 その一方で同僚たちはといえば明らかに心身を蝕む生活を続けている。そのような中であなたが彼らを打ち負かさないわけがないのである。当たり前のように出世へとつながる仕事はあなたに任されるようになり、自然と「上へ」と押し出されていたに違いないのだ。これが正に「礼」なのである。そしてこうしたやり方こそ、東洋独特の陰陽道の極意なのである。 話を徳川家康に戻す。―――現在の言葉で言うと明らかに「メタボ」であった家康は、それだけ健康に気を遣い、まだ見ぬ「未来」を絶えずイメージしては人知れず鍛錬を続けていた。「武士のトップに上り詰めるためには征夷大将軍となる必要があり、朝廷からそう認められるには源氏の良い家柄である必要がある」。 こんなある意味、途方もない発想を家康が得、祖父・清康の代から主張し始めた「清和源氏新田氏の系統」という、かなり無理がある主張をし、三河から遠く離れた下野にあって没落しかけていた「得川(=徳川)」の姓を正式に名乗り始めたのも、正に落ち着いた心を整えられた生活の中で持ち続けていたことの証左なのだ(ちなみにこの「征夷大将軍」の拝命がどれほど徳川家にとって意味があったのかについては、例えば足利家後継の中で征夷大将軍の後継権を持っていた「御一家」の一つの吉良家について、浅野内匠頭によって刃傷沙汰になった時、被害者であるにもかかわらず冷遇したことからも分かる。徳川家にとって吉良家は由緒正しすぎ、目の上の瘤だったのである)。 粗食をたしなみ、酒も決して暴東京大学法学部在学中に外交官試験に合格、外務省に外務公務員Ⅰ種職員として入省。12年間奉職し、アジア大洋州局北東アジア課課長補佐(北朝鮮班長)を最後に自主退職。現在、独立系シンクタンク代表。「すべての日本人に“情報リテラシー”を!」という想いの下、情報リテラシー教育を多方面に展開。自ら調査・分析レポートを執筆すると共に、国内大手企業等に対するグローバル人財研修事業を全国で展開する。近著に『それでも「日本バブル」は終わらない――残された2年間ですべてが変わる』(徳間書店)。最新刊は『ジャパン・ラッシュ――「デフレ縮小化」で日本が世界の中心となる』(東洋経済新報社・12月6日発行)2014年1月の無料講演会「2014年 年頭記念講演会」に登壇いたします。詳細・お申込みはインターネットでどうぞ。OG GIKEN PRESENTSTakeoHarada株式会社原田武夫国際戦略情報研究所代表取締役(CEO)原田武夫 飲はせず、しかも自ら漢方薬を処方することが出来たと伝えられる徳川家康。その最大の健康法は「鷹狩」であった。生涯を通じて1000回もの鷹狩をこなしたと言われた徳川家康は、最晩年である70歳を過ぎた頃にも200メートル先の的に的中させるほどの腕前の持ち主であったと伝えられている。 しかしそれ以上に彼が長命であったのは「怒り」がもたらす健康被害を知っていたからだ。「堪忍は、無事のいしずえ 怒りは、敵と思え」という家康の言葉は、現代医学にも相通ずるものである。怒りをもたらす脳内物質はたかだか20秒しか分泌されない。これを堪えるだけでその後の世界は変わるのだ。正に世界制覇はすぐそこの足元から始まる、なのだ。株式会社原田武夫国際戦略情報研究所 http://www.haradatakeo.com検索原田武夫 頼れるコーチ

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