つなぐ通信 vol.06 2014夏号
16/40

16TSU NA GU TSUSHIN 久保板観さん1941年生まれ。東京都青梅市出身。丹下左膳の映画看板に魅せられ、13歳から独学で研究し16歳でプロに。当初は青梅の映画館に掛け合い絵の具代だけで描いていたが、18歳で市内の全3館を制覇。“走り方”が普通ではなかったという。「俳優に似せる」「迫力のある看板」が看板師としてのこだわり。赤・黄・青・白・黒の5色の泥絵の具にニカワを溶いて描くのが板観流。ニカワが手に入らなくなってからはポスターカラーが主流。泥絵の具のような質感をどう出すか…常にチャレンジ精神旺盛。「昭和の風景は、30年代ばかりじゃないんですよ。江戸や明治、大正の面影が少しずつ残っていたり、戦前のモダンな昭和もあれば、戦争のどさくさもある。渾然一体となっているのが昭和の風景だと思います。青梅にはそれがあるんですよ」 横川さんはこれを「昭和レトロ」と名付けました。いっこうに開発が進まなかった街並みを逆手にとり、昭和レトロの景観を生かした街おこしがスタートしました。コンセプトは「ノスタルジー」。平成もいつかはノスタルジーになるのです。廃業した家具屋の空き家対策として『昭和レトロ商品博物館』をオープンしたのを始まりに、現在は「NPO法人ぶらり青梅宿」を組織し、青梅の地域遺産を活用していく「おうめまるごと博物館構想」を進めています。映画看板師・久保板観の男気と滅びの美学時代劇の侍を描くのが好き。昔の俳優の顔は個性があったという。街中が板観さんのギャラリーに。青梅宿の通称「銀幕街道」には久保板観さんが描いた映画看板が店舗や駐車場などいたるところに。現在日本に映画看板師は数えるほどしかいない。しかも絵も文字も描ける看板師は希有だという。映画看板は室内に掲げるより屋外が数倍映える。劣化も激しいがそれは「滅びの美学」だと板観さんはいう。 今や「映画看板の街」として全国に名を知られる青梅。いたるところで目につく手描き映画看板の多くは久保板観さんの作。日本一有名な映画看板師です。独学で16歳からプロとして描き始め、最盛期3軒あった青梅の映画館の看板を一手に引き受けていました。 しかし映画が斜陽になり映画館はすべて閉館。商業看板屋に転業しますが、今度はコンピュータの時代になり看板屋は廃業。その後アコーディオンに興味を持ち、50歳頃にプロに師事し老人ホームなどを回っていたといいます。 人生の大きな転機になったのは平成5年(1993)にアコーディオン弾きとして参加した『青梅アートフェスティバル』でした。たまたま「竹久夢二版画展」の看板を描くことになり〝映画看板師〞の血が騒ぎました。「もう一度世に出たい!」。翌年のアートフェスティバルでは無料で映画看板を描かせて欲しいと申し出、これが大評判となり、一躍街おこしの立役者になったのです。今年は川柳の笑いで元気を!沈没商店街浮上大作戦 実は幼馴染みが多い地元商店街では遠慮が多く、思い切った事のできない「ぬるま湯化」が大きな課題でした。時代に合った魅力的な商品に乏しく「人が訪れてもお金が落ちない」のです。それを打破するのは「外からの血」だと横川さんはいいます。他の地域出身者や若い世代の斬新な発想も望んでいます。2年前よりアートフェスティバルも〝若手〞に託しました。「勝手にしやがれ」のヌーベルバーグが街おこしにも必要なのです。とはいえ遊びを熟知している長老たちの「沈没商店街浮上大作戦」は、したたかに進行中でした。かんばんぼく 板観さんは捨てられる運命の映画看板を〝作品〞として見てくれるだけで嬉しいと、金銭は二の次にして街中に描き続けました。横川さんは「板観さんの男気」に応え宣伝に励み、板観さんは取材が殺到する有名人になったのです。PRESENT赤塚不二夫の漫画のキャラクター「イヤミ」「バカボンのパパ」「ひみつのアッコちゃん」のポストカードの中からいずれか1枚を6名様にプレゼント!応募方法は37ページをご覧ください。

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です