つなぐ通信 vol.04 2013冬号
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07TSU NA GU TSUSHIN 思考の根源は手塚治虫から学んだ生命はみなつながっている『火の鳥』の編集者から固定種のタネ屋三代目に転身『火の鳥』の看板に恥じないタネ屋であり続けたい 野口さんが「固定種」にこだわるのには、大きな理由があります。それを象徴するのが「野口のタネ」の店の入口に掲げられている手塚治虫の『火の鳥』と『鉄腕アトム』です。 「野口のタネ」は1929年(昭和4)創業。野口さんで三代目となります。祖父の代から「固定種」を販売していましたが、昭和40年代頃から時代は「F1種」主流になり、先行きに不安を感じていました。もともと漫画好きだったこともあり、漫画雑誌の編集者になろうと大学に進学したところ、虫プロの社員募集があり応募したら合格。小学生から手塚治虫ファンだった野口さんは中退し憧れの虫プロに入社したのです。そして出版部で『火の鳥』の初代担当編集者になりました。 野口さんは手塚治虫のテーマが「生命の尊厳と地球環境の持続」であることを知りとても感銘を受けました。手塚漫画は動物も植物も細菌までも「生命はみな同じ」と教えてくれます。みなつながっているのです。人間の身勝手で自然界に回復できないダメージをあたえてはならないのだと。 その後、虫プロが倒産したこともあり30歳を機に家業のタネ屋を継ぐことにしました。「F1種」が隆盛な時代でも「固定種」のタネ屋へと迷わず進みました。「命をつなぐ固定種」の復活に挑戦したいと思ったのです。5ページの『鉄腕アトム』の銅像は、漫画で飯能の町おこしをしたいと飯能青年会議所の仲間に呼びかけて1983年に建立したものです。漫画家の協力で資金を集めた日本で初めての漫画の銅像でした。常に根っこの部分で手塚治虫とつながっているのです。 『火の鳥』の看板を掲げることは、手塚治虫と(株)手塚プロにお願いして許諾をいただいたものです。店の正面左手に『火の鳥』が、右手には大人になったアトムとウランが掲げられています。これは大人になったアトムとウランが訪ねてくるシーンで、アトムのスーツは新入社員時の野口さんがモデルともいわれているようです。 店に隣接している住まいで、野口さんの手塚漫画コレクションを見せていただ「野口のタネ」の看板の左右に『火の鳥』と、スーツを着た大人のアトムとウランが掲げられている。屋根の上にはネオンファイバーの『火の鳥』があるが、雪の日にショートしたまま。「野口のタネ」は1929年(昭和4)祖父が「野口種苗園」を創業。父の代に現在の「野口種苗研究所」となった。小学生の時に強烈な刺激を受けた『白骨船長』や『来るべき人類』もある。看板にもなっている大人になったアトムとウランが訪ねてくるシーン。雑誌『COM』に掲載された『火の鳥』の「第一部・黎明編」。う構図が成り立っているからです。埼玉県飯能市小瀬戸192-1Tel.042-972-2478 Fax.042-972-7701(原則年中無休)http://noguchiseed.com/野口のタネ/野口種苗研究所

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