つなぐ通信 vol.01 2013春号(創刊号)
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19TSU NA GU TSUSHIN  そこは、子どもの頃ワクワクした「秘密の隠れ家」。染め物の資機材が所狭しと置かれ、増築を繰り返した薄暗い工場はまるで迷路。錆びた金属、割れたコンクリート、朽ちた板戸、あちこちから蒸気が吹き出している様は、さながら映画『ウォーターワールド』のよう… 八王子の「奥田染工場」は、業界ではちょっとした有名染め工場。『ミントデザインズ』『matohu』『イイダ傘店』『petite robe noire』など、人気ブランドのテキスタイルを手掛け、この工場で制作しているデザイナーや、「奥田塾」で染色を学び、巣立っていった人も多数。工場内の壁にはクリエーターのお宝落書きがあったり、磨りガラスの窓には、カラフルなペインティングアート風の意図的な指跡。ここはみんなの楽しいクリエーションワールドなのです。 奥田博伸さんが奥田染工場四代目代表となったのは、今から約2年前。早すぎた父・正美さんの死による32歳の社長就任でした。 博伸さんは幼い頃から工場を遊び場にして育ち、ワンダーランドのような空気感や世界観が大好きでした。 いつかは「工場を継ごう…」と思って父がつないだ、 ここはクリエーターが集うワンダーな夢工場父は商売よりも人のために動いていたOKUDAPRINTCO.,LTD多くの人に愛された父、故・奥田正美さん。工場ではマリメッコ社の2011年春夏にデザインが採用された、テキスタイルデザイナー近藤政嗣さんが制作中。奥田染工場を長年支えてくれている77歳の現役職人古谷さんもカッコイイ仕事ぶりを見せていました。いましたが、人一倍気が小さかった博伸さんは、「僕が継ぐ」とは恥ずかしくて、一度も口に出すことができなかったのです。 奥田染工場は1932年(昭和17年)葛飾区より八王子に移転。着物、風呂敷、ネクタイ、セーター、Tシャツなど、時代と共に主力アイテムを変遷してきました。父・正美さんが工場の代表になったのは、1963年(昭和38年)武蔵大学在学中のとき。お祖父さんの急死によるものでした。父・正美さんもまた、お祖父さんに「継ぐ」と伝えることができず、それをずっと後悔していたといいます。 博伸さんが物心ついたとき、すでに繊維は斜陽産業。工場の経営はかなり苦しく、借金もあり「染め工場は儲からないもの」と思っていたといいます。しかし、80年代のバブル期は儲かった工場も多く、設備投資や、お金を蓄えたりしていましたが、奥田染工場はそのどちらにも属しませんでした。 「父は、商売よりも人のために動く人でした。困っている工場があると、仕事を回してあげたり、染めの技術を惜しむことなく教えていました。欲がないんです(笑)」写真=貝塚純一 文=成田典子 P19(奥田正美さん写真)、p20(浴衣)写真提供:奥田博伸

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